翻訳苦心談 1:読みはじめ(蘭学事始)
さて、この書を読みはじむるに、如何やうにして筆を立つべしと談じ合ひしに、「とてもはじめより内象のことは知れがたかるべし。この書の最初に仰伏全象の図あり。これは表部外象のことなり。その名処はみな知れたることなれば、その図と説の符号を合せ考ふることは、取付きやすかるべし。図のはじめとはいひ、かたがた先づこれより筆を取り初むべし」と定めたり。即ち解体新書形体名目篇これなり。
その頃は、デの、ヘットの、また、アルス、ウエルケ等の助語の類も、何れが何れやら心に落付きて弁へぬことゆゑ、少しづつは記憶せし語ありても、前後一向にわからぬことばかりなり。たとへば、「眉(ウエインブラーウ)といふものは目の上に生じたる毛なり」とあるやうなる一句も、彷彿として、長き春の一日には明らめられず、日暮るるまで考へ詰め、互ひににらみ合ひて、僅か一二寸ばかりの文章、一行も解し得ることならぬことにてありしなり。
本文の説明
1: さて、この書を読みはじむるに、
- さて接さて。
- しょ書名本。書物。
- を格助対象…を。
- に格助時…に。…時に。
さて、この本を読み始める時に、
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2: 如何やうにして筆を立つべしと談じ合ひしに、
- いかやうなり如何様なり形動どうだ。どのようだ。
- す動する。
- ふでをたつ筆を立つ連語筆を立てる。書き始める。
- べし助動適当…のがよい。
- き助動過去…た。
- に接助偶然条件…が。…と。…ところ。
どのようにして訳を書き始めるのがよいかと相談したが、
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3: 「とてもはじめより内象のことは知れがたかるべし。
- より格助時間的起点…から。
- ないしゃう内象名内側の様子。
- の格助連体修飾格…の。
- しれがたし知れ難し形自然に知れることが難しい。わかりにくい。下二段動詞「知る」+形容詞型接尾辞「~がたし」。
- べし助動推量…だろう。…にちがいない。
「とても初めから体の内側の様子のことは知ることはできないだろう。
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4: この書の最初に仰伏全象の図あり。
- しょ書名本。書物。
- の格助連体修飾格…の。
- に格助場所…に。…で。
- ぎゃうふく仰伏名体の前と後ろ。
- ぜんしゃう全象名全体の様子。
- の格助連体修飾格…の。
- あり動ある。いる。
この本の最初に人体の前面と背面の全体図がある。
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5: これは表部外象のことなり。
- へうぶ表部名表の部分。
- ぐゎいしゃう外象名外側の様子。
- の格助連体修飾格…の。
- なり助動断定…だ。…である。
これは表面的な体の外側の様子のことである。
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6: その名処はみな知れたることなれば、
- などころ名処名物の部分の名称。
- たり助動存続…ている。…てある。
- なり助動断定…だ。…である。
- ば接助原因・理由…ので。…から。
その名称はみなわかっていることなので、
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7: その図と説の符号を合せ考ふることは、取付きやすかるべし。
- の格助連体修飾格…の。
- を格助対象…を。
- とりつきやすし取り付き易し形取りかかるのが易しい。動詞「取り付く」+形容詞型接尾辞「~やすし」。
- べし助動当然…はずだ。
その図と解説の符号を合わせて検討することは、取りかかりやすいはずだ。
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8: 図のはじめとはいひ、かたがた先づこれより筆を取り初むべし」と定めたり。
- の格助連体修飾格…の。
- とはいひとは言ひ連語また…でもあり。格助詞「と」+係助詞「は」+動詞「言ふ」連用形。
- かたがた方々名皆さん。
- より格助空間的起点…から。
- ふでをとる筆を取る連語書く。執筆する。
- 〜はじむ〜始む補動〜始める。
- べし助動意志…う。…よう。…つもりだ。
- さだむ定む動決める。判定する。
- たり助動完了…た。…てしまった。
図の初めということもあるし、皆でまずここから執筆を始めよう」と決めた。
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9: 即ち解体新書形体名目篇これなり。
- すなはち即ち接言い換えれば。詳しく言えば。とりもなおさず。
- かいたいしんしょ解体新書名1774年刊行。オランダ語で書かれた解剖医学書を翻訳したもの。訳者は前野良沢、杉田玄白ら。
- なり助動断定…だ。…である。
すなわち『解体新書』形体名目篇はこれである。
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10: その頃は、デの、ヘットの、
- デ―オランダ語のdeで、英語のtheに相当する。
- の格助並立…とか。
- ヘット―オランダ語のhetで、英語のit、theに相当する。
- の格助並立…とか。
その頃は、デとか、ヘットとか、
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11: また、アルス、ウエルケ等の助語の類も、
- アルス―オランダ語のalsで、英語のasに相当する。
- ウエルケ―オランダ語のwelkeで、英語のwhichに相当する。
- の格助連体修飾格…の。
- の格助連体修飾格…の。
- たぐひ類名種類。類。
またアルス、ウエルケ等の助語の類も、
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12: 何れが何れやら心に落付きて弁へぬことゆゑ、
- いづれ何れ名どれ。どちら。
- が格助主格…が。
- いづれ何れ名どれ。どちら。
- やら副助不確実…だろうか。
- こころ心名心。精神。
- に格助場所…に。…で。
- おちつく落ち着く動居所を得る。安定する。
- わきまふ弁ふ動見分ける。判別する。
- ず助動打消…ない。
- ゆゑ故名…のために。…によって。
どれがどれなのかしっかりとは判別できていないことであるため、
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13: 少しづつは記憶せし語ありても、前後一向にわからぬことばかりなり。
- き助動過去…た。
- あり動…ある。いる。
- ぜんごいっかうに前後一向に連語まったく。全然。下に打消語をともない、強い否定を表す。
- ず助動打消…ない。
- ばかり副助限定…だけ。…ばかり。
- なり助動断定…だ。…である。
少しずつは記憶していた単語があっても、まったくわからないことばかりである。
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14: たとへば、「眉(ウエインブラーウ)といふものは目の上に生じたる毛なり」とあるやうなる一句も、
- の格助連体修飾格…の。
- に格助場所…に。…で。
- たり助動存続…ている。…てある。
- なり助動断定…だ。…である。
- あり動ある。いる。
- やう様名様子。ありさま。
- なり助動断定…だ。…である。
たとえば、「眉(ウエインブラーウ)というものは目の上に生えている毛である」と書いてあるような一句も、
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15: 彷彿として、長き春の一日には明らめられず、
- はうふつたり彷彿たり形動はっきりしない。
- して接助状態…で。…の状態で。
- の格助連体修飾格…の。
- に格助時…に。…時に。
- あきらむ明らむ動明らかにする。はっきりさせる。
- らる助動可能…ことができる。
- ず助動打消…ない。
意味がぼんやりしていて、長い春の一日では解明できず、
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16: 日暮るるまで考へ詰め、互ひににらみ合ひて、
- くる暮る動暮れる。
- かんがへつむ考へ詰む動極限まで考える。
日が暮れるまで真剣に考え続け、お互いににらみ合って、
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17: 僅か一二寸ばかりの文章、
- わづかなり僅かなり形動非常に少ない。ここでは語尾を伴わず「たった」「ほんの」という意味で副詞的に用いられている。
- すん寸名長さの単位。1寸は約3㎝に当たる。
- ばかり副助程度…ぐらい。
- の格助連体修飾格…の。
たった3~6㎝ほどの文章を、
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18: 一行も解し得ることならぬことにてありしなり。
- かいす解す動理解する。
- 〜う〜得動~ことができる。
- なる成る動実現する。成り立つ。
- ず助動打消…ない。
- なり助動断定…だ。…である。
- 〜あり動~である。~状態である。
- き助動過去…た。
- なり助動断定…だ。…である。
一行も解釈することができない状態だったのである。
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現代語訳
さて、この本を読み始める時に、どのようにして訳を書き始めるのがよいかと相談したが、「とても初めから体の内側の様子のことは知ることはできないだろう。この本の最初に人体の前面と背面の全体図がある。これは表面的な体の外側の様子のことである。その名称はみなわかっていることなので、その図と解説の符号を合わせて検討することは、取りかかりやすいはずだ。図の初めということもあるし、皆でまずここから執筆を始めよう」と決めた。すなわち『解体新書』形体名目篇はこれである。
その頃は、デとか、ヘットとか、またアルス、ウエルケ等の助語の類も、どれがどれなのかしっかりとは判別できていないことであるため、少しずつは記憶していた単語があっても、まったくわからないことばかりである。たとえば、「眉(ウエインブラーウ)というものは目の上に生えている毛である」と書いてあるような一句も、意味がぼんやりしていて、長い春の一日では解明できず、日が暮れるまで真剣に考え続け、お互いににらみ合って、たった3~6㎝ほどの文章を、一行も解釈することができない状態だったのである。