また或る日、鼻のところにて、「フルヘッヘンドせしものなり」とあるに至りしに、この語わからず。これは如何なることにてあるべきと考へ合ひしに、如何ともせんやうなし。その頃ウヲールデンブック(釈字書)といふものなし。漸く長崎より良沢求め帰りし簡略なる一小冊ありしを見合せたるに、フルヘッヘンドの釈註に、木の枝を断ち去れば、その跡フルヘッヘンドをなし、また庭を掃除すれば、その塵土聚まりフルヘッヘンドすといふやうに読み出だせり。これは如何なる意味なるべしと、また例の如くこじつけ考へ合ふに、弁へかねたり。時に、翁思ふに、「木の枝を断りたる跡癒ゆれば堆くなり、また掃除して塵土聚まればこれも堆くなるなり。鼻は面中に在りて堆起せるものなれば、フルヘッヘンドは堆(ウヅタカシ)といふことなるべし。然ればこの語は堆と訳しては如何」と言ひければ、各々これを聞きて、「甚だ尤もなり。堆と訳さば正当すべし」と決定せり。その時の嬉しさは、何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心地せり。
またある日、鼻のところで、「フルヘッヘンドしたものである」とある箇所に至ったが、この言葉がわからない。これはどういうことなのだろうと考え合ったが、どうにもしようがない。その頃、辞書というものはない。ようやく長崎から良沢が買い求めて持ち帰った簡略な一冊の小さい本があったのを参照したところ、フルヘッヘンドの注釈において、木の枝を切り落とすと、その跡はフルヘッヘンドをなし、また庭を掃除すると、その塵や土が集まってフルヘッヘンドするというように解読できた。これはどういう意味であろうと、また例のように無理に解釈して考え合ったが、理解できなかった。その時に、私が思うには、「木の枝を切った跡が回復すると盛り上がり、また掃除して塵や土が集まるとこれも高く積もるのである。鼻は顔の中に存在して盛り上がっているものであるから、フルヘッヘンドは盛り上がっているということであろう。だから、この言葉は盛り上がっていると訳してはどうだろう」と言ったところ、各人はこれを聞いて、「まったくそのとおりだ。盛り上がっていると訳すならぴったりだろう」と解釈が定まった。その時の嬉しさは、何にたとえようもなく、非常に価値のある宝玉をも手に入れたような気がした。