三位是をあけて見て、「かかる忘れがたみを給はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑ひあるべからず。さても唯今の御わたりこそ、情もすぐれてふかう、哀れもことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ」と宣へば、薩摩守悦ンで、「今は西海の浪の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ、浮世に思ひおく事候はず。さらば暇申して」とて、馬にうち乗り、甲の緒をしめ、西をさいてぞあゆませ給ふ。
三位うしろを遥かに見おくッてたたれたれば、忠度の声とおぼしくて、「前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳す」と、たからかに口ずさみ給へば、俊成卿、いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさへてぞ入り給ふ。
其後世しづまッて、千載集を撰ぜられけるに、忠度のありし有様、言ひおきし言の葉、今更思ひ出でて哀れなりければ、彼巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷花」といふ題にてよまれたりける歌一首ぞ、「読人知らず」と入れられける。
さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな
其身朝敵となりにし上は、子細におよばずといひながら、うらめしかりし事どもなり。
三位はこれを開けて見て、「このような忘れがたい記念の品をいただきましたからには、決していい加減には考えないつもりです。(その私の決意を)お疑いになってはいけません。それにしてもこのたびの御訪問こそは、お気持ちもとりわけ深く(感じられ)、しみじみとした感慨も格別なものとして自然と思い知られて、感動の涙を抑えることが難しいのです」とおっしゃると、薩摩守は喜んで、「今は西方の海の波の底に沈むなら沈んでもよい、山野に死体をさらすならさらしてもよい、この俗世に思い残すことはございません。それでは、お別れを申し上げて」と言って、馬に乗り、胄の紐を引き締め、西を指して(馬を)歩ませなさる。
三位がその後ろ姿を遠くなるまで見送って立っていらっしゃると、忠度の声と思われる声で、「これから行く道は遠い。思いを(遥か彼方の)雁山にかかる夕暮れ時の雲に差し向ける」と、声高らかに朗誦されるので、俊成卿はますます名残惜しく思われて、涙をこらえて邸内にお入りになる。
その後、世の中が平穏になって、(俊成卿が)千載集を編集なさった時に、忠度の生前の有様、言い遺した言葉を、あらためて思い出して感慨が深かったので、(忠度から託された)その巻物の中に(勅撰集に選ばれるのに)ふさわしい歌はいくつもあったが、(忠度は)天皇の咎めを受けた人であるので、名前を公表なさらずに、「故郷の花」という題でお詠みになった歌一首を、「読人知らず」としてお入れになった。
志賀の旧都は荒れはててしまったが、昔のまま(の美しさ)で咲いている(長等山の)山桜であることよ
その身が朝廷の敵となってしまった以上は、(あれこれと)細かく言うことではないとはいうものの、残念だった一連の出来事である。